月下美人

月下美人という花を見たことがあるだろうか。

「あら、ちょうどいいところに来たわ」
いつも歩く道で見知らぬ女性に話しかけられた。外は月明かりばかりで、暑い昼間を忘れさせるほど静かな夜だったのに、女性は白地に紫陽花に染められた浴衣姿で団扇を仰ぎながら愛おしそうに月下美人を眺めていた。
「今晩しか咲かないんですよ」
月下美人という花の名前は以前から知っていた、それなのにどんな花を咲かすのか知らなかった。そんな見られるものではないと思っていたから、はじめて出会って少し面食らってしまった。女性は真っ白に開かれた花弁を眺めている。

山間の街の昼間は暑い、東京都同じぐらい、いやそれ以上に、でも、夜の空気は涼しかった、音を吸収してしまうのではないかと思うぐらいに澄んでいて、それでいてとても乾いていた。空を見上げた。星空はいつもよりずっと瞬いていて月がくっきりと浮かんでいた。最近そんなに上を見上げたことはなかった。夏は晴れの日が多いから星がよく見える。夜空が美しかろうがかすんでいようが人の気持ちなんて変わらない、でも、その日の夜空を覚えているのだ。音を覚えているのだ。空気を覚えているのだ。確かに自分がその道を歩いた、息をしていたという実感と共に、都会の雑踏に立ちながら、あの憎んだ季節に時折戻ってみたくなるのだ。

寮の仲間が学部に上がりぼくは一人になった。一人きりアパートに住み、自分で食事の用意をしたり音楽を聴いたり、本を読んだり、テレビはなかったからラジオでも聴いていたのだろうか、でも、殆どの時間を部屋の隅を眺めたり、天井を眺めたり、何を考えるでもなく胸に重い空気の沈殿を覚えながら、同じような思考を繰り返しながら。青白い蛍光灯の下で何もすることがないのに眠れない夜だけに怯えていた。

その日もすることがなくて外を歩いていたのだ。人のいない夜、それがいいと感じたことはない。たしかに人混みは苦手だった。でも人のいない通りが好きだったわけではない。誰もいない路地をうろつきながら、結局は孤独を深めつつ、やはり同じ思考を繰り返す。何もなかった。愛するものも、愛してくれる人も。寂しかったのか?そう、きっとただ寂しかったのだ。でも単純な言葉で表される感情をぼくはずっと拒否していた。思い悩むという情況は複雑な感情が入り乱れ混乱するものだと考えていたのに、実際は色々な情報を遮断しながら、たくさんあった感情の形が失われることなのだと、そのころはじめて知ったのだった。それですっきりなどしなかった。やはりいびつな感情の形に息苦しくなるだけだった。

花びらがこぼれ落ちそうな月下美人を眺めていた。白くて大きな花弁のせいで茎が重そうで顔を前に傾けていた。朝になれば枯れてしまうその花に出会ったことは幸福だったのだろうか。突然の出会いでいい悪いも分からないまま、その花を眺めて、後ろのアスファルトに落とされた暗闇の影に思いを馳せていたのだ。