断章十

佐久間みゆはぼくが1年目に恋をした3人の中で一番最後に現れた。
「クラスの名簿ができたよ」
さおりはいつも明るかった。初めて好きだと言った日と比べて髪も伸びて女の子らしくなっていた。


その数日前、学生食堂へ向かうなだらかな坂道で、ラクロスのラケットを担いで歩いている彼女を見た。水色ユニフォームを纏った彼女は、まるで学内で一番恵まれた少女のような足取りだった。さおりはこんなにかわいい女性だったのかと一瞬息を飲んだ。同時に、ぼくはだんだん学生生活から落ちこぼれていたから、彼女の眩しさがかえって重荷になっていた。


体育の時間は女子とは別だった。ぼくと川口はソフトボールの合間に女子の体育を眺めていた。唐突に川口はぼくに話しかけてきた。
「石橋は垂水のことが好きなんだろ」
ぼくは笑って何も答えなかった。
「垂水はケツがでかいね」
「うん」
「ケツのでかい女が好きなんだ」
「ケツのでかい女は嫌いじゃないよ」
嘘だった。本当は華奢なケツが好きだった。大きな臀部だけがさおりの中で唯一好きになれなかった。


さおりを少しだけ嫌いになる出来事があった。音楽史の授業の後だ。いつものようにさおりはぼくの隣に座っていた。
「石橋くん、ねえこの間休んだ分のノート、見せてよ。約束していたでしょ?」
たしかに約束はしていたのは覚えていた。だから一生懸命ノートをとった。だが、ぼくは高校時代はノートをとったことがなかった。テスト前はいつも隣のピアノを弾ける韓国人からノートは借りていた。韓国人はいつも激怒してノートを貸す。ぼくは、はいはいごめんと言って、部活が始まるまでいつも眠っていた。だからノートのとり方を知らない。
「字が汚くて読めないよ」
ごめん、と言っただろうか。家庭教師をしていた時、生徒役の女子高生に同じことを言われた。一緒になって笑った。笑って済ませられた。でも垂水との差を大きく感じすぎていて、その一言に必要以上のショックを受けていた。
山間の街の5月の日差しは厳しい。冷たい雪空の下で出会った女は、澄みわたるような青空の下で遠い存在になりはじめていた。


さおりに赤い電車の彼女の影を重ねていたことには気づいていた。ただ、さおりを好きになったのは本当だった。それも多分前よりもずっと好きになっていた。でも、好きだと言ったことへの返事はもらっていなかった。星空の下できみの家に行ってご飯を食べてもよいかと聞いたことがあった。さおりは無言で頷いた。今思えばあれは回答だったのだろうか。標高の高いところの夜空だったから、星が輝きすぎていて気づかなかった。


さおりと一緒にクラスの名簿を開いた。
「佐久間さん、サイモンとガーファンクルが好きなんだって。石橋くんと同じだね」
クロユリ寮に住んでいるんだ。知らなかった。」
「えー?みゆちゃんのこと知らないの?」
陽子が口を挟んでくる。
「今日もわたしの隣に座ってたよ。みゆちゃん、すごく頭がいいんだ」
何度もぶりっ子っぽくまばたきをする。そんな陽子の仕草がぼくは嫌いだった。華奢な娘で、ぼくと同じ寮に住む原田のことが好きだった。ブロンテ姉妹の愛読者で、村上春樹の『ノルウェイの森』で出会った。


ぼくは佐久間を探すようになった。そして視認するのにさほど時間はかからなかった。寮ではぼくが参加していた思想ゼミにいた河野と同じブロックに住んでいた。河野は植木の彼女だった。植木とぼくとはその頃そこそこ話をする仲だった。植木と河野が話していれば佐久間がいつもそばにいた。
つまり、佐久間はぼくが探さずともすでに視界の中にいた。
体躯はその年頃らしくふっくらとしていた。切れ長の瞳と黒い髪。いつも眩しそうな顔をしていたが、眼鏡ばかりしていた人が急にそれを外したときの違和感に似ていた。色あせているがきれいにたたまれた跡のあるシャツとジーンズ姿だった。クラスで一番美しい女性、というのはいかにも陳腐な表現だが、そういう言葉が似合う娘だった。気楽に話しかけられる雰囲気はなかった。


木漏れ日の五月


新緑の五月
坂を登る
女の姿が見える
ラクロスのラケットを持った
水色のユニフォーム


山の日差しは
眩しすぎるから
上を見ないでください
見上げると
木漏れ日がこぼれて
きみを溶かしてしまうから
本を開けば
言葉を焼いてしまうから


帽子をかぶってください
青空は多分
きみにはやさしく ない