traveling

英文科の女の子、なんていうのは世間に掃いて捨てるほどいるだろうが、ぼくの車の助手席にそんな属性を持った女性が乗っていることに対して、言いようのない違和感を覚えながら、ハンドルを握っていた。職場の同僚とご飯を食べた後で、たまたま帰る方向が同じだったぼくが彼女を送っていたのだと思う。工場夜景なんてブームになる前から、深夜の京葉工業地帯の夜景は眩しくて、思わずアクセルを踏みたくなる。
胸が大きくて顔が宇多田ヒカルに少しだけ似ていた。むしろ宇多田が少し可愛らしくなった感じだったが、少し言葉遣いが幼くて、「文学」なんて言葉があまり似合わないタイプだった。実はそれら全てが演技だったなんて、気がつくのには少し時間が必要だった。


ところでぼくは彼女と何を話していたのか全く覚えていない。多分、大学生の頃恋をしていた英文科の女の子のことを思い出していた。いつから好きになっていたのだろう。はっきり意識したのは3年次前期初日の人文第2教室前でのことだ。「不倫って憧れない?」数カ月ぶりの再会時の第一声がそれだった。彼女の問いに「憧れない」と即答した。嘘じゃなかった。いや、嘘じゃなかったけれど、そのときになってはじめてぼくは彼女のことを好きだったことに気づいたのだ。彼女もぼくを好きだったのだろうか。そんな答え合わせを「不倫」という言葉でしようとする彼女に、血が逆流するような苛立ちを感じていた。


助手席に座っているKがつけている香水は女性向けのSAMOURAIだった。水商売の女がつけるようなシャネルとは違って甘い香りがして嫌いではなかったが、大学時代の彼女のように、洗いたてのシャンプーの香りのするような女の子の方がずっと好みだった。いや、SAMOURAIの匂いが嫌いだったわけではなくて、香水なんてつけていること自体が気に入らなかった。
KがSAMOURAIという香水をつけていることを教えてくれたのは先輩のTだった。彼は職場の中で誰がどの香水をつけているかをぼくに教えてくれた。ぼくは鼻が悪いから匂いがわからない。だからそういう話は新鮮で面白かったが、香水の好きなTのことを少し気持ちが悪いと思っていた。Tとは基本的に毎日いっしょに帰っていたし、飯も一緒に食うぐらい仲は悪くなかったが、ぼくたちの関係は日を追う毎に悪くなっていた。きっかけはぼくの仕事ぶりをTが批判し始めたあたりからだと思う。ただ、それらの指摘は的外れではなかったし、そういうことで人を嫌いになるほど、ぼくは狭量ではなかった。
多分香水の話と無関係ではない。ぼくは親密な関係というのが苦手なのだ。人間の「匂い」にまで踏み込んでくるTの存在が少し「うざったく」感じ始めていた。「香水」だけではない。そこから派生するすべてのものに気持ち悪さを感じ始めていた。
これだけ関係が悪くなっているのに、毎回のようにぼくを愛車の助手席に乗せるTのことを「男色」ではないかと疑い始めていた。ぼくが感じている気持ちの悪さをを知ってか知らぬか、Tは諭すように話しかけてくる。
「Kのことどう思うか」
「別に、どうとも思いませんけれども」
「あいつはバカな女だよ。本当にバカな女だ。気づかないのか?」
ぼくは特段答える言葉なかったので、当時吸っていたLARKのメンソールに火を点けた。バカな女。そんな人畜無害の存在をなんで鞭で叩く必要があるのだろうか?


その答えを教えてくれたのは同僚のHだった。年下のくせに偉そうだったが、気持ちの優しい男だった。
「石橋くん、Kと仲良く話をするのをやめろよ」
「なんで?」
HはKの高校の後輩だったから、Kの幼い話し方を心底軽蔑していて、それを以前からぼくに話していた。そういう関係性が滑稽で面白かったから、その話を聞くのが大好きだったが、その日は様子が少し違っていた。
「Tくんが傷つくからだよ」
年上のぼくたちをくん付でけ呼ぶ違和感もさることながら、Tが傷つくという言葉の方がずっと衝撃だった。
「TさんはKさんのことを嫌いなはずだけど」
ぼくはどこまでも敬称をつける。
「いやいやいや」
コーヒーを飲みながら、Hはタバコの火をもみ消す。「Tくん、Kに告ったんだよ」
「は?」
ぼくはTが勧めるせいで中毒になっていたドクタペッパーを吐き出しそうになった。
「フラレたんだよ。だから、石橋くんとKが楽しそうに話をしているのを見るとTが傷つくんだよ。」
全く知っちゃこっちゃない。どこかでぼくはTの言葉のセンスとか生き方をかっこいいと思っていた節もあったから、その幻滅は大きかった。奴はあんな「バカな」女に恋をしたのか。失礼にもそう思った。え?誰に失礼なのだろうか?
「知らねえよ」
ぼくは珍しく丁寧な言葉を崩して返答した。


ぼくは大学を留年した。標高の高い場所の三月の空はまだ冬のままで、今にも雪が零れ落ちそうなほど灰色だった。食堂のちょうど三年前出会ったテーブルで、明日卒業する彼女と再会した。
「英語の先生になるんだって?」
「うん、そうよ」
「石橋くんはどうするの?」
「どうでもいいじゃないか」
不機嫌になったぼくの横顔を眺め、困った顔をしてしばらくすると小さく手をふって「さよなら」をした。ぼくも「さよなら」と言った。
あの時彼女に彼氏はまだいたのだろうか?不機嫌になったついでに洗いざらい吐いて、彼女を無茶苦茶にしてやればよかった。

 

国道の表示が16号から457号に入った辺りで周りが賑やかになる。Kが独文とか仏文とか違う学科だったなら、こんなに嫌なことを思い出さなかったのにと少し恨んだ。
カーラジオからは宇多田ヒカルの「traveling」が流れ出す。ぼくは万華鏡の空間をくぐり抜けるようなこの曲が大好きだ。Kがラジオに合わせて鼻歌を歌いだした。Kは自分が宇多田に似ていることに気づいているのだろうか。ぼくは宇多田のCDは全部持っている。あと少しのところで言うところだったけれども黙っていた。二人で何を話していたのだろうか。Kはすこぶる機嫌が良さそうだった。

Kを最寄りの駅のバスターミナルで降ろした。Tの気持ちが少しだけわかった気がした。「バカな女」も悪くない。でも「バカな」というのは誤った修飾だった。半年後ぼくは彼女を好きになった。好きになったけれども秘密にしていた。たしかにTへの義理立てがあったのかもしれない。しかしながらそれ以上に大きな存在がぼくを締め付けていた。端的に言えばぼくは壊れていた。長い空白のトンネルを歩いていたのだ。

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