漫画『聲の形』を読む(1)

「さよならは別れの 言葉じゃなくて / 再び逢うまでの 遠い約束」という歌詞があったが、漫画『聲の形』は本当にくるかわからない明日のために、何度も「またね」を繰り返すお話だった。主人公石田将也とヒロイン西宮硝子の間にある共通の言語は「手話」である。手話で交わす「またね」のサインは、たとえば野球のピッチャーが一塁手に牽制のサインを出すみたいに二本指でつくる斜め下向きのVサインだ。「さよなら」みたいな曖昧で無責任な言葉じゃなく、もっと明確で強い希望を表象しているから、ずっとずっと重い。
映画『聲の形』から入ったぼくにとっては、漫画『聲の形』の描写の細かさにびっくりした。作者は繊細な描写により自分の伝えたいことを余すことなく読者に伝えようとする。どこか「行間」という表現にとって当然ある装置を、全く信頼していないようにも見える。相手に誤解のないように伝えよう。「またね」のVサインとどこか相似しているように見えた。

アニメの方もその方向性は継承しているが、それでは時間に収まりきらないので、漫画作者(大今良時)が咀嚼しつくした表現を、アニメ製作者側が再解釈を行うことで咀嚼前に再構成し、あるべき行間まで復活させて、視聴者に再提出した。ストーリの改変など、原作の方向性を保てなくなってしまう恐れすらあったが、意図をしっかり継承しつつアニメ化した京都アニメーションの力を再確認させられた。

漫画に話を戻そう。

たとえば植野直花は主人公の将也に好意を寄せている。アニメでは明示されていないが、相当鈍感でない限り、そのことに気が付くことは容易だ。おそらく漫画でもそこまで表現を尽くす必要はなかった。しかし漫画『聲の形』では、ベタなくらいに直花の好意を明示する。大半はそれらの描写をディテールの深さと評価するかもしれない。あるいは、作者の大今は表現者としては稚拙だから、不要な描写を削ぎ落とせないのだとも考えられる。だが、ぼくは3週目辺りで、愚直なまでの「説明」という行為こそが、この作品の本質なのではないかと思うようになった。

人と人とは悲しいほど理解しあえない。だから何かを相手に伝えるときは全力で相手に伝えたい。

そのようなテーマを考えるとき、本来主人公である将也のための物語と思われた本作が、ヒロイン硝子の苦悩を描くためのストーリーのようにも思えてくる。いじめられている側に非はない、というのは周囲からは簡単に言えるが、当事者から見ればそんなに簡単な問題ではない。伝えたいのに伝わらない。これは健常者でも当然あり得る問題である。

たとえば外国人と日常会話を交わすというのは案外難しくないが、恋愛となると途端に難易度が上がる。微妙なニュアンスなど全くあてにならない。「手話」と似ている。それでも本当の思いを伝えるなら相手の言葉で伝えたくなる。西宮硝子の「好き」という気持ちは本来手話で伝えるべきだったが、「カタコト」の音声で伝えたいと思ったところにこそコミュニケーションに潜む難しさが潜んでいる。
将也、直花、そして硝子の三人が揃ってはじめて再会するシーン、直花が去った後で何を話していたのかと、硝子は手話で将也に尋ねる。硝子は勢い余って、作者すら解釈に困るようなスピードで手話を繰り出し、将也を困らせてしまう。知るべき内容ではないとわかっていても相手にそれを求める。反面直花のようにその答えが怖いからこそ、相手の気持の細部を覗くことをを拒絶したりもする。

これはアニメと共通しているが、作品上の救いは将也の母、石田美也子によってもたらされる。美也子は作品中に存在する悪意や誤解などネガティブなすべてを受け止めてくれる存在として描かれている。しかし、硝子の妹結絃とは何度も出会っているにもかかわらず、硝子との邂逅(正確には再会)は意外なことにかなり遅い。将也が意識不明になった病院に硝子が訪ねたある日、その瞬間が訪れる。

病院の廊下の曲がり角、美也子と硝子は出合い頭にぶつかってしまう。硝子の手から美容師向けの本が落ちる。「あっ、これわたしも持ってるわ」と美也子は落ちた本を拾い上げる。美也子は美容師。そして硝子はかつて美也子に髪を切ってもらったことがあった。だから硝子は美也子の顔を知っている。

「あなた…硝子さん…?」

彼女の顔を見た途端ペンとメモ帳を握りしめて何かを書こうとする硝子。美也子はその横を「じゃあ、ね」の一言で通り過ぎようとする。

「はげますことも怒ることもできる。笑顔で話すこともできるけど、どれも本当じゃない気がして…、だから将也が目覚めたら、その時ゆっくり話しましょ」

「そう西宮さんに伝えて」そして耳の聞こえない硝子への伝言を将也の仲間たちに託す。

このシーンを作者がどのような意図で描いたかはわからない。ぼくはこの場面を本作の数少ない「余白」だと感じた。美也子は硝子に人と人との間には「余白」があることを教え、硝子がそれに気づくシーンのようにも見えた。これは硝子がクラスメートとの間に生じた大きな余白に対する恐怖に、一つの答えを与えたのではなかったか。これはぼくの主観的な読みでしかないことは承知している。

この作品がただの感動を与えるための物語ならば、将也と硝子の橋での再会シーンで終わりにすべきであった。おそらく映画もそうだったが、なんらかの着地点を求めて「文化祭」でピリオドを打った。それが映画の陳腐さというか煮えきらなさを残す結果になったと筆者は見ている。
原作はその点ずっと誠実だ。ハッピーエンドがあったところで人生には死ぬまで続きがある。本作は将也と硝子が成人式で再会し、小学校の同窓会の扉を開けるところで終わる。読者はその意味について考えなければならない。扉の先にある「余白」について思いを馳せる必要がある。

おそらく「余白」に存在するのは痛みだけかもしれない。それでもおそらく二人なら乗り越えていけるのではないだろうか。ぼくたちもまたいくつになっても繰り返す「余白」を受け止めなければならない。何度も何度も「またね」のサインを繰り返して。