ドライポイント

夕方には真っ赤な太陽と富士山が見える3階の踊り場から中央階段を降りると公衆電話があって、その横に夏の花を活けた花瓶を描いた精緻なドライポイントが飾ってあった。県の展覧会で最優秀の賞を取ったらしい。三年生の名前が下に記されていて、その人がどんな人なのだろうかとずっと気になっていた。
ドライポイントというのは版画の一種である。本来は銅板を彫るらしいが、ぼくたちの中学校では樹脂製の板を使っていた。ぼくは絵が下手で不器用だったので全くいい思い出がなかった。そんなぼくからしたら、美しい鉛筆書きのスケッチのような絵をドライポイントで描いてしまうなんて想像もできないことだった。
中学校なんて狭いものだから、学内の有名画家なんてすぐに見つかった。精緻ということばを絵に描いたような冷たい人を思い浮かべていたが、道を歩いているとすぐに電柱にぶつかってしまうような雰囲気の人だった。周囲から孤立しているわけではなかったけれども、いつもなんだか浮いていて、糸の切れた凧が舞っているような女性だった。当然だが、同じ学年ならともかく、一級上だとほぼ接点はなかった。
その年の合唱コンクールはなぜかぼくが指揮者になった。経緯はよく覚えていない。正確にリズムを刻めない自分が指揮者なんて、今でも全く理解出来ないが、当時だってこれはおかしい事態だと思っていた。自由曲はアカペラ。担任は新卒の小さな女性教師でわあわあ騒いでいるだけだし、指揮者はぼくだし、これは崩壊するしかないと思っていた。
結果は銀賞だった。7クラス中の2番めだったから悪くはない。評判は金賞だったらしい。金賞を逃したのは多分ぼくのリズムが狂っていたからだ。でも黙っていた。担任の先生がやっぱりわあわあと騒いでいた。それでよかった。
次の日は3年生のコンクールだった。さすがに最高学年だけあって、レベルの高いクラスが多かった。最後はF組だった。ドライポイントの彼女が指揮者だった。跳ねるように階段を昇ると、聴衆に背を向けて手を跳ね上げた。それからゆっくり振り返ると照れながらぼくたちに向かってお辞儀をした。体育館が笑いに包まれる。挨拶を忘れていたのである。
画家はもう一度手を跳ね上げる。そこから振り下ろされた腕の動きの美しかったこと。決して大きなアクションではない。しかしながら足の指の先から背中は弾むようで、手の指の先までが一本の弓のようにしなりながら、音を引き出していく。彼女自身が一つの美しい音色を奏でる楽器になっていたのかもしれない。合唱なんてどうでもいい。ぼくは躍動する彼女を見ていた。どちらかと言うとぼくは美的なものに疎い。そんなぼくですら見惚れるようなタクトだったのだ。
卒業式、小学生の頃憧れていた、送辞を読むという役割が自分に与えられた。式辞用の用紙に筆ペンかなにかで清書し、それを必死に暗記した。話をするのは下手だったが朗読には自信があった。
700人以上集まった体育館でぼくは送辞を読んだ。恐らく人生の中でもあれだけうまく「演説」ができたことはなかっただろう。充実感を感じて自分の席に戻った。答辞を読む先輩は女子だった。答辞を読む前にすでに泣き始めていた、そのせいでこの年の卒業式は大変なことになった。卒業生の半分以上が泣きはじめたのである。
ぼくは自分の手柄だと当時の野球部の顧問に自慢したが、いやあれは泣いた三年の答辞がすごかったんだと取り合ってくれなかった。ぼくは甚だ不満だったが、人を泣かす泣かさないなんて言葉にとってどうでもよい問題だ。
卒業式の日、一つだけ良いことがあった。卒業生を見送る校舎前、なんとなくぼくは一人校舎前に立っていた。野球部の先輩ぐらいとは挨拶をしたのだろうか。あまり覚えていない。眼の前をうろちょろうろちょろと画家の先輩が歩いていた。ああやっぱり落ち着きがないんだと目で追ってしまうぐらいうろちょろしていたが、なぜかピタッとぼくの前に立った。
「すてきな送辞、どうもありがとう」
そう言うと、レンブラントが描くようなドライポイントを生み出す両手で、ぼくの手をしっかり包み込んだのだ。多分ぼくは真っ赤になっていたと思うが、両手でその手を握り返したと思う。「こちらこそありがとうございました」とか何がありがとうだかわからない挨拶をしたと思う。力強いけれどもしなやかな握手だった。
ぼくは特段美文家ではないけれども、人並みには文章を書いて褒められたことはあった。それでもこの日の先輩からもらった「ありがとう」ほど嬉しかったことはなかった。「憧れ」ということばでよいのかわからなかったけれども、その日の美しかった先輩のことをいつか文章にできたらいいなとずっと考えていた。