京成本線

ぼくは生きてきた時期をその時よく乗った電車の色でイメージしている。別にそれを読む人に押し付けようとも思っていないが、少なくとも自分自身がそういうふうに遊んでいる。高校時代までに乗っていた電車は赤色ということにしている。
京成本線は銀色の車両である。なのにぼくは赤色と決めつけている。どちらかといえば赤色で思い出すのは京浜急行ではないか。でも長野方面に向かう空色の特急列車、御茶ノ水から四谷を走る黄色の各駅停車との対比で赤色というのは、とても収まりがよいので、誤りを正さずそのままにしてしまった。固有名詞なんて詩においては修飾語句に過ぎないので、正しさというのはあまり重要ではない。そもそも詩とか散文の中でその列車が京成線であるなどと宣言したことは一度だってないはずだ。

だけれどもぼくは固有名詞を好んでよく使うので、インターネットとかを使ってその認識は本当に合っているのか、確認することがある。たとえば、先日書いた千住大橋という詩の中で駅での風景を確認するのにGoogle Mapを使った。女子高生を「上り」方面に見た時、日差しは順光だったのか、逆光だったのか。そんなことなど当時は考えてもなかった。記憶の見え方から予測すると順光だったはずだ。たしかに地図上で確認すると女子高生は西に立っていた。ああ、やはり記憶通りだったと、別に詩に反映されたわけではないが、それでぼくは自己満足に浸ることができる。

ところで、詩を書いたはいいが疑問はまだたくさん残っていた。女子高生の制服についての情報は随分前のものなので、インターネット上では見つけられなかった。いや、こんな女々しい詩を書いていながら、女の子の制服なんて血道を上げて調べている自分というのは、どうも気持ちが悪くて耐えられなくなったのだ。それでも1時間は探していたから、努力としては十分だろう。

疑問はまだある。駅で「上り」方面に立った女子高生の先には何もなかった、とあるが本当に何もなかったのか。あともう1点は、中川を越えると東京に入ると前文にあるが、詩の中には千住大橋の先に本当の東京があるとある。こういう不可解な書き方をしている背景には恐らく隅田川の存在がある。周知の通り隅田川の先というのは「川向う」と呼ばれていて、いわゆる江戸とは区別されていたという。「川向う」は差別語云々の話もあるらしいがそこまでは触れない。ただ隅田川が一つの境界線のイメージとなっていることを示しているに過ぎない。しかしながらそれだけでは、多分詩にならないような気がする。

赤い電車」に乗ることは案外難しくない。普段使っている「黄色い電車」の駅から15分程度歩くと「赤い電車」の駅がある。だから稀に使わないこともない。その日は上野へ行こうと思っていたから、浮気をするならちょうどよかった。
ぼくはロケハンはしないくせに、自分の詩の検証旅行にでかけたということになる。

青砥駅の手前、中川が見える。この先が東京だという。青砥駅は高架2層になっていて京成線ではもっとも未来的な雰囲気を感じた駅だ。左手に曲がれば新橋・品川へ、右に曲がると上野方面の本線だ。今回の対象は本線なので当然右コースを選ぶが、青砥駅を出たタイミングで息を呑んだ。ここでぐっと建物の密度が濃くなる。なるほどこの雰囲気を東京と感じたわけか。納得した。

乗車して10分弱だろうか。千住大橋駅に着く。すでに薄暗くなっていた。曇っていたので太陽の位置はあまり関係なかった。降りてすぐ感じたのが、ホームの短さだ。普段乗っている黄色い電車は10両。京成線は長くても8両だったから当然といえば当然だが、思っていたより短かった。若い頃見た場所はみんな遠くに見えていたが、実際に帰省をしてみると、皆歩いていけるような場所で拍子抜けしたことがあった。たとえばそれは自動車に乗れるようになったからとか、そういう物理的なことではなく、心理的な距離がどんどん狭まっているということだ。年をとると時間を短く感じると言うが、距離という感覚も同じなのかもしれない。

さて冷静になって上り方面を見ている。右手に中学校が見える。正面には町並みが見えた。問題は左手だ。Google Mapでは遠くに隅田川があるはずだ。しかしながらそこには大きなショッピングモールができていた。だから逆説的だがそちらは空も見えなかった。なんだかほっとした。すべてが記憶通りというのはちょっと息苦しかった。もう相当な時間が過ぎたんだから変わって当然なのだ。ぼくの気持ちも体つきも顔も、あのときのぼくとは別人のはずなのだ。

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もう一つの問い、ほんとうの東京という言葉について。「ほんとうの」という修飾語が「川向う」という言葉とセットになっていることは間違いない。ただ感覚的にこの先に「東京」を感じる何かがあったはずだ。

隅田川は記憶になかった。なるほど列車から眺めた隅田川は残念ながらつまらない川だった。いや、今のぼくが見たらやはり趣深いものがあるが、当時の高校生が江戸川、中川、荒川と越えてきてこの川を見たら、ただの川だと思うだろう。でも、東京探しの答えはその先ですぐに見つかった。右手に町屋斎場、左手に浄水場。ぼくの大好きな「中央フリーウェイ」という歌のような感じだが、そこをすぎると急に街が線路にまで迫ってくる。花やしきのジェットコースター。あれ程ではないにせよ下町と列車の距離が急に近くなる。なるほどこの感覚が東京だったのだ。余談だがぼくの亡くなった叔父を焼いたのは多分町屋斎場だったと思う。するとぼくは3年間叔父との別れを反芻していたことになる。

京成本線は面白いぞ。今更ながらそう感じた。日暮里を過ぎると上野の山に進入していく。幼い頃はこれを地下鉄だと思っていたが、これはトンネルだ。上野駅の前に博物館動物園駅というのがあって、そこがまた面白い駅だったのだが、さすがにもう思い出せない。だから今日も10年前に書いたテキストに頼ることにしたい。

 

いつも降りる日暮里駅を通過し、短い地下鉄の調度真ん中当りにある博物館動物園駅で降りた。何度も通り過ぎたことはあったが、実際降りたのは初めてだった。ディズニーランドのアトラクションにある洞窟のような駅だったが、階段を上ると見える建物は大正モダンの面影を残し、古いステンドグラスから柔らかい朝の光が差し込んでいた。

 

雨の中東京芸大が見えた。僕はセンター試験にかけていた。大学生になればなにかが変わると思っていた。受験票はそのための片道切符だった。

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