的中祈願隊

パドックへ向かう途中、有人窓口の前に若い女が立っているのが見えた。的中祈願隊というふざけたメンバーの一人だ。馬券を買うと「当たりますように」と手を握ってくれる。まるで地下アイドルの握手会のようなものだ。僕のように独り者にはオアシスのような場所だが、それが馬券となると話が違ってくる。一度当たるとそこでしか買えなくなる。その握手が的中させているのではないかという錯覚を覚える。

ツインテールの女と目が合ったように思った。それはおそらく勘違いではなった。地下アイドルは多分自分のファンを覚えている。その中の多くが離れていくことも知っている。俺は昨日、彼女から4回買った。そのうち2回的中した。

さて、払戻率75%とはいったいどのようなものだろうか。1万人の聴衆がいて1万円ずつ賭けると1億円。そこから金を失った人が退場していくとして2レース目は7500万円が残る。3レース目になると5600万円。
「ではこの最終レース。いくら残っているか。わかるかい?そこの兄さん」
ここは大井競馬場。日本で最も中央にある一番お洒落な「草競馬場」。きらびやかなイルミネーションと若いモデルの写真、そして明るいパドックの脇に、酒も食べ物も売っていない、寂れた屋台が並んでいるが、そこでは予想という商品が売られている。
「1000万ぐらいですかね?」
血色の良い中年のおやじが答えた。
「惜しいねえ、400万ぐらいだったかな。細かい数字は忘れたが」
予想屋Yは白いチョークで「本日一番」という言葉の横に「場朽ち」と書いた。「アガサクリテスティーじゃないが、競馬場には誰もいなくなる」
どっと沸く。
「さて、さっきのメインレース。1番は絶対来ないと言っただろ!東京ダービーで1番は5番に10馬身負けた。それがどうやって5番に勝つんだ。」Yは白い馬の切り抜きを黒板に叩きつけた。
俺はその1番を買っていた。普段予想はTから買っていた。Tは1番を本命にしていた。東京ダービーで負けたのは馬のせいではない。おそらく騎手だ。リーディングでベスト10にも入れないS。彼が南関で一番うまい騎手だというのは、船橋で聞いた。船橋予想屋は、予想は下手だが内部事情をよく知っている。
実を言えば、そんなことは大井の予想屋たちも知っていたはずだった。だが彼らはそれをストレートには口にしない。Tはただ「Sは8割下手に乗る」とだけ言った。Sは優れていても正しいジョッキーではなかった。Sはまた下手に乗った。それが真実だった。
「君たちはマスコミの裏を読もうとしない。だからテレビにもスマホにも日刊競馬にも騙されるんだ!」
再び場が湧く。それからYは群衆の中から俺の目を見つめた。
「では、これから私が君たちに真実を教えよう」
Yの前職はボッタクリスナックの店長だったらしい。その視線がまるで詐欺師のようだったから、俺は吹き出してしまった。周りもつられて笑っていた。
「ったく、信じてねえな・・・、次のレース3番は来ない。3番は絶対2番に先着しない」
Yは長方形に切った小さなわら半紙に予想を刻むためのスタンプを、音を立てて打ち込んでいく。群衆が予想台に押し寄せる。俺はその波が引くのを待って、わら半紙の切れ端を200円で買った。
本命は6番。穴だ。騎手はリーテディングのM。俺は6番を軸に馬連を4点計1万円購入することにした。Mは今開催調子を落としていたが今日は調子が良かった。すでに3勝。今日ならいける。

俺はツインテールの女のいる有人窓口へ向かった。女は白地に淡い紫色の紫陽花柄の浴衣を着ていた。「今日はもうこれで最後ですね」熱狂的なファンに会ったとき、アイドルがするような笑みを浮かべたあと、下唇をかんでみせた。暗いから肌の色すらよくわからない。でも、昨日と比べて美しくなっているように感じた。それは的中という思い出がそう思わせているだけなのかもしれない。「当たりますように」握った手が暖かかった。俺の財布はすでに空だ。これを外すと無料のはとバスで逃走するしかない。なぜだろう。ギャンブルの果てなんて、すべてを失うだけなのに。俺はこんな怪しい茶番にすら縋っている。

勝ったらどうしようか。当たる気がしていた。女でも買うか。新橋はだめだ。職場に近い。久しぶりに吉原に行こうか。セックスを教えてくれる女がいる。「そこで、そこでぎゅっと、ぎゅっと抱きしめるの」女は叫びながらイク。バックで果てようものなら説教だ。「ねえ、まさかイッタの?顔も見せずにもうイッタの?」女は四つん這いで息を切らせ、前のめりになりながらつぶやく。「気持ちよかったけど」…髪は汗で乱れていた。ただその表情は、手のかかる弟のいたずらにうんざりする姉が見せるそれだった。女が店に出るのは昼の仕事が終わったあとだ。いつも遅刻ばかりするのでなかなかタイミングが合わない。仕事の掛け持ちは大変じゃないかと聞いたことがある。「ふん、OLが仕事が終わって彼氏とセックスするのとなにも違わないわよ」女は不機嫌に答えた。
「家庭ができると性処理が面倒になるんだよ。いいとこないか」大学の先輩に聞かれたことがある。確かに面倒になるかも。そう感じていたが、そもそも俺には家庭がなかった。家庭もないのに面倒になったのは老いたからか。いや、金がないからだ。女を買えるほど競馬で勝ったことがない。金さえあれば女を買うことができる。否、童顔だが色気のある女にセックスを教われる。

ホームストレッチにゲートがあった。6番は落ち着いていた。ゲートインも問題なかった。3番はうなだれていた。ゼッケンと股には白い汗が見えた。Fがしきりに馬の腰めがけてムチを打つ。輪乗りでムチを打つというのは効果があるのだろうか。俺は訝しく感じた。しかしながらFは帝王と呼ばれていた。帝王に誤りがあるはずがない。それでも3番がだめなのは誰の目から見ても明らかだった。

スタートした。6番が先行した。3番は出遅れた。スローだ。競りかける馬はいない。そのまま1角、2角を曲がった。もらった。6番は最内をロスなく回る。ダートの良馬場、すなわち砂が深い馬場。足が重い。ホームストレッチで逆転などできる展開ではない。だが3角を回ったところで8番が最後尾から一気にスパートをかけ6番を捉えた。川崎のJ。Mのライバル。全く無謀な追い込みだった。Jに勝つ気はない。ただMを潰すために競りかけていった。若いMは馬を抑えない。いかん、オーバーペースだ。そのまま4角を2頭がぶっち切りで回り、最終直線になだれ込んだ。
「そのまま!」俺は叫んだ。しかしこの展開は望んでいなかった。砂の深い馬場で無理をすればバテるだけだ。あと200mのところで6番はズルズルと交代した。8番にいたってはすでに歩き始めていた。イン3でじっと控えていた3番がハナを奪った。「帝王」と叫ぶ男がいた。「帝王差せー」呼応するように叫び声がこだました。3番はハナ差で2番を抑えた。俺は足早に帰りの無料バスへ足を向けた。
去り際に予想屋Tの屋台を見た。ちょうど的中表を外しているところだった。第12レースの行が真っ赤に縁取られていた。3連複8万馬券が的中していた。