断章三

駅前の街で一番おしゃれな通りを二人で歩いた。誘ったのは陽子の方だった。用事があるからついてきて欲しいという話だったと思う。彼女はリボンの付いた真っ白なコートを着ていた。華奢な体によく似合っていた。きっと今の僕だったらそんな彼女を褒めたり、ちょっとからかったりとかできただろう。でも当時はちょっと前まで野球少年、まだダサい子供に過ぎなかった。
木造で雰囲気は良さそうだがコーヒーのまずい喫茶店に入った。店内は暗く、ちいさな白熱灯の明かりが柔らかく照らしていた。僕たち以外はウェイターが数人いるだけだった。

「冬になると新潟では何メートルも雪が積もるんだよね」
「今じゃそんな降らないわよ。・・・ねえちょっと、馬鹿にしてるでしょ?」
陽子は珍しく怒った顔をしたあとで、クスッと笑って付け加えた「幼い頃はたくさん降った。二メートルぐらい積もった雪と私が写った写真がある。今度見せてあげるから」
「ふ~ん」僕は彼女の幼少時の姿を思い浮かべてみた。想像の中の陽子は、なぜか真っ赤なコートを着ていて白い雪に映えていた。
「今日は珍しく積もってるね」
「うん、あまり降らないけれども積もると春まで溶けない」
「お花見の日もまだ雪が残ってた」
「見上げると枝はまだ黒くて、空は暗くて」
「ふふ、雪が降ってきた」

彼女の話し方は少しだけぶりっ子で、そこがあまり好きではなかったけれども、時折眩しそうにする猫のようなまばたきはかわいいと思っていた。「付き合うなら気楽な相手がいいよ」と山本に言われたから少しだけ気になって、想像の中で陽子の服を脱がせてみたが、乳房が薄くて鎖骨が浮いていたので、優しく服を着せ直してやったのだった。

僕は小説家になりたいと公言していたが、今思えば陽子こそ本物の文学少女だった。[ノルウェイの森」にでてきた「The Great Gatsby」を教えてくれたのも彼女だった。ギャッツビーを読みなよと言われて読んでみたが、ギャッツビーの良さがよくわからなかった。「ねえ、今度はジェーン・エアを読みなよ」。女に本を押し付けたことは何度かあったが、女に本を勧められて読んだのは、大学教授を除いて彼女以外いなかった。でも、ジェーン・エアは結局読まなかった。

茶店を出た。雪がレンガ通りに純白の絨毯を敷いて、そこに僕たちは新しい足跡をつけた。僕はなぜか、彼女の後ろをついていくだけだった。いや多分その言い方は正しくない。この小説を書いているのは僕ではなく、白い妖精を演じている女流作家だった。街灯が反射していたのに眩しくなかったのは、思ったより灯りが柔らかかったからか。

地下のバス停で1時間に1本のバスを待った。
「ねえ、みゆちゃんが好きなの」
「うん」僕は当たり前のように答えた。
「そう。」
陽子は答えた。僕は彼女の横顔を見たが、ただ斜め前を見つめているだけだった。
「小説家になるの?」
「うん」
茶店の中とは違いコンクリートに囲まれた殺風景な空間だった。
帰りは別のバスに乗った。

十年後、僕は小説の題材を探していて、雪のブリックロードを歩いた記憶に行き着いたが、言葉に起こしてみてはじめて、それがすでに小説になっていることに気づいたのだった。
ここまで書いて結局のところ、陽子がどんな結末を思い浮かべていたかわからない。おそらくこの小説には僕以外の登場人物も含めてつづきがあるはずだった。もちろんそのつづきを書けるだけの才能が僕にはない。ただ、いまだに喉の奥につかえた魚の骨のようにジェーン・エアの名前だけが脳裏に残りつづけた。